院長挨拶 根本啓行

はじめに

当ホームページをご覧いただきましてありがとうございます。

根本齒科室は、平成18年に開業以来、試行錯誤を繰り返しながら、現在では予防・メンテナンスを中心に地域の皆様のお口の健康と機能のお役に立てるようにとの方向性で現在に至ります。

歯医者選びの難しさ

患者様が口々におっしゃることは、いかに歯医者選びに悩んだか、ということです。
これは自分でも歯医者選びに悩んだ経験があり、大変重い言葉だと思います。

なぜ歯医者選びに苦労されるのかというと、やはりさまざまな経緯で、歯医者に対する信頼度が低下しているからだと思います。

自分のお話を聞いてもらえるだろうか、とか通いやすい雰囲気だろうか、など、いろいろな不安がよぎると思います。

そのような方の不安をできるだけ軽減するために、なるべく医院の情報を開示して、ていねいに説明して、来院者の方のご意向に耳を傾けたいと思っています。

特別なことや豪華な設備があるわけではありませんが、そのようなご苦労が少しでも報われるようにということを常に考えて、診療にあたっています。

悪い歯よりも生活習慣

ひとつだけ忘れないで頂きたいことは、歯科は生活習慣病であるということです。
勝手に歯が悪くなったわけではありません。
そこには、食習慣や生活習慣が大きく作用しています。その他かみ合わせや常在菌のタイプ、唾液の性質の差、歯ブラシのクセなども影響してきますが、通常は歯が悪くなったのは必ず「原因」がセットだということです。

ですから、悪い歯だけ持ち込まれても治らないのです。

生活習慣などの原因を置き去りにして悪い歯だけ持ち込まれても、その場を取りつくろうことはできたとしても、結果的には全体的にどんどん悪化して、最後は…ということになってしまいます。残念ながらそういう方は大勢いらっしゃいます。

なりたい姿、なりたくない姿というのは個人差がありますので、ここでは規定はしませんが、悪い歯ができてしまったということは、なりたい姿や、維持したいイメージから自分自身が低下してきてしまっていることを示しています。

つまり、自分のあり方を見直さなければいけないサインでもあるのです。

私は歯医者のような顔をしていますが、極端な話、95%くらいはその人となりに全神経を集中しているつもりです。
それは、歯ではない所のほうがはるかに大事だからです。

予約枠に対する考え方

ぜひご自重いただきたいのは、診療の無断キャンセルです。
当日キャンセルも、できるだけお控えください。

歯科では自然治癒がないので、すべて手作業で計画的に構築しなければいけません。これが歯医者が回数がかかる理由です。
そこでどうしても時間枠を切り売りるするような形にならざるを得ません。

とくに保険診療は広く薄く負担して広く薄く給付する大前提がありますから、より多くの方に効率的に歯科医療を提供することは医院側の大きな使命です。

分配できる時間枠には限りがあります。これは予約をした方だけのものではなく、予約を取りたい、または取りたかった患者様すべてが共有する権利がある時間であるというのが当歯科室のゆるぎない信念です。

ですので、無断キャンセルや当日キャンセルは医院もさることながら、他の治療希望の患者様に対しても迷惑になります。

万一のご変更でも早めにご連絡を頂ければ、キャンセル待ちの方やその枠に入りたい方は大勢いらっしゃいますので、多くの方にとって権利が広がる形になります。ぜひ、その権利を邪魔したり、無にするような真似はご遠慮ください。

来歴

私の祖先

私の祖先は中郷地区の松井で代々郷士などをやっていたようです。ただ当時は末子(ばっち)相続といって、一番下の兄弟が実家を代々継いでいたということもあり、祖父は分家・独立して、北茨城市大津町中町に歯科医院を開業しました。

私の父は、7人兄弟の4番目ながら長男として生まれました。医療系を目指したこともあったようですが、結局日大文理学部に入学しました。実家の医院は、2歳下の弟つまり私の叔父が継承しました。私の東京医科歯科大学歯学部の先輩筋に当たります。

父は研究室の教授から三年の約束で静岡県三島市への出向を命じられ、付属の日大三島高校の社会化教諭として赴きます。その1週間後に茨城県から日本史教諭として境高校に赴任するようにという辞令も届き、迷った末、三島での生活を選びました。しかしそのすぐ後に指導教授が急逝し、東京に戻れなくなってしまいます。そこでドイツ文学者の 植村敏夫(Wikipedia) の次女である母と知り合い、私と弟が誕生しました。

その後家業は叔父が継いでいましたが、結果的に独身のまま逝去し、歯科医院は閉院することになりました。

幼少時代

私はといえば、物心つく頃から大の鉄道好きで、系統としては乗り鉄・音鉄メインでした。近所に鉄道模型に詳しい友人が住んでいたのでその子とばかり遊んでいたように思います。三島駅から修善寺駅まで駿豆線が走っていて、耳鼻科に通うのによく利用していましたが、乗ったらいつもかぶりついて前面展望でした。

将来の夢はもちろん電車の運転士になることでしたが、そのことを両親はあまり快く思っていなかったようで、幼少時代はなぜか剣道とピアノを厳しく習わされました。これに関しては先生よりも親が厳しく、少しでもたるんでいると容赦なく手が飛んでくるというもので、とても憂鬱な思いをしたものです。

剣道の方はたまたま中学の隣が父の勤務先の高校だったため、部活が終わったあとも特例で強制的に高校の道場で稽古させられていました。当時は地区有数の強豪高として知られていたため稽古の厳しさや年上部員の迫力は十分トラウマで、すぐに剣道がとても嫌いになりました。

ただ不思議なことに、中2くらいから自分でも分からないのですが嫌いなはずの剣道が急に強くなりだし、高2くらいまでは地元ではほとんど負けないくらいにはなりました。柄にもなく少しだけ尊敬されるようにもなり、また剣道が少しだけ好きになりました。

学生時代

高校はさすがに父の勤務する学校とは別の韮山高校に進学しましたが、部活疲れで授業中も寝てばかり、成績も伸び悩んでいました。そのころは唯一得点元だった化学を生かして、理系だったらなんでもいいかなと漠然と思っていました。ただしサラリーマンだと派閥争いとか足の引っ張り合いみたいなことが頻発するのではと、当時の私は大変気をもんでいました。

いっぽう叔父がやっている開業歯科医は、傍目には自由業的な側面が強く感じられ、結局そこが自分的に大きなポイントになり、叔父の真似をして歯学部を受験することにしました。

しかし、とりあえず歯医者はみな同じようなものだと高をくくっていた私は、あまり学業に専念することもせず、卒業のときに気がついたら留年と剣道の思い出しかないくらい打ち込んでしまいました。

今にして思うと、剣道の経験からは、同じ量の努力をするにしても、自分と同レベルないしは低いレベルで行うよりも、質・量ともに一段高い環境・レベルで集中的に行うことが非常によい結果を生むということを学びました。これは中学のときの高校への出稽古、大学のときの警視庁新木場道場への出稽古を通じて身をもって経験しましたので、私の処世訓にもなっています。

スタイルの模索

大学院時代は天笠光雄教授のいる第一口腔外科に大学院生として入局することになりました。教授が叔父の同期なので、院試はあってないようなものでした。しかしひょんなことから、メインの研究を出向先で行うことになります。

そこは難治疾患研究所の分子薬理学教室というところでした。メンバーには、現本学再生医療センターの関矢一郎センター長、現分子生命医学講座の麻生義則教授、同じく辻邦和教授、ラグビーWカップでおなじみの高澤祐治教授(順天堂大学、サントリー)などの錚々たる先生方が院生・ポスドクとしておられ、未熟者の私には恐れ多すぎて大変居心地の悪い環境でした。
学生たちを束ねる野田政樹教授は傍目には温厚に見える語り口でしたが、研究や勉強には一切妥協しないという意味で大変厳しい先生でした。毎週英語の専門論文を題材にセミナーが行われ、院生など参加者は質問が義務付けられており、英語が不得意な自分には大変負担でした。また毎週教授室で実験レポートの対面報告もあり、報告書の書式から院生の間では「小生」と呼ばれていましたが、これも毎週胃が痛くなる思いでした。

そこでのテーマは、簡単に言うとオステオポンチン(OPN)というサイトカインの性質も持ち合わせる細胞外基質蛋白が、骨芽細胞や破骨細胞、その他の細胞と細胞表面の各種インテグリン(αvβ3やα4β1など)やモレキュール(cd44など)を介してどのような影響を及ぼしあうか、というものでした。当時与えられたテーマが、B16マウス悪性黒色腫細胞を培養して、オステオポンチンノックアウトマウス(OPN(-/-))と普通のマウス(C57BL/6 wild type)の大腿静脈および心臓に注入して、癌の転移の経過の差を追う、というものでした。

動物実験と拡大鏡での観察にあけくれた院生時代には、期せずして、裸眼では絶対にアプローチできない世界が存在することを学びました。今も不良修復物の再修復や根の治療にはマイクロスコープは大活躍です。

しかし、臨床を重ねるうちに、人間の手技による限界も見えてきました。たとえば歯が取れたとか悪くなったといってお見えの受診者の方の歯を見ると、あきらかに私よりも上手な先生が作られたものも少なからずあります。それでもしばしば取れたり隙間から朽ちてしまったりするのです。

これは腕の良し悪しを超越した原因があるに違いない、と思いました。

また、若いころの私は、よく入れ歯が合わないという症例に悩んでいました。そのとき良くても、しばらくするとバネをかけた歯がぐらぐらになってきたり、入れ歯の汚れが移ったとしか思えない様なむし歯に悩まされたりします。
そんな私には、欠損修復において

① 固定式であり、清掃しやすい
② 他の歯に依存して害を加えない自立式
③ 歯と同じかそれ以上に丈夫である

であるインプラントは大変魅力的に感じられました。

保険外診療なので、個々人の制約もありますが、これなら入れ歯などにまつわる「歯科レベルの問題」「生活レベルの問題」など諸問題は一掃できます。

① 歯と同じように取り外さず使用できる
② 他の歯も楽をできるので全体で長持ちする
③ 丈夫なのでおいしいものを何でも食べられる

まだこれに代わる決定打は現れていないようです。

東日本大震災と『歯医者不要論』

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

当歯科室も、停電、断水などでかなりの混乱がありましたが、震災後に非常に印象的だったのは、十年前後経過した差し歯や銀歯が「取れた」「欠けた」という方が大勢来院されたことです。これは震災前にはなかったことなので、大変驚きました。

これはどうみても、精神的・肉体的なストレスがブラキシズム(歯ぎしり・くいしばり)を誘発して、歯牙に過剰な物理的負荷をかけていたと考えざるを得ませんでした。
今まで「治った『ことにされていた』」修復物がことごとく崩壊してくるのです。

そして、ブラキシズムが引き起こすもうひとつの症状「知覚過敏」も、この時期大幅に増加しました。

「やはり、歯の治療は『治って』いなかった」

従来の治療行為が、震災の前に無力だったとは初めて知りました。

治ったと思っていても、隙間からの二次齲蝕などで銀歯やブリッジなどの修復物は年々弱っているのです。これらは初診時に視診やレントゲン読影でも判然としないことも少なくありません(むしろ判然とするようでは大問題ですが)。
必然的に「治っている」ととりあえず扱わざるを得ません。

「治療とは何だろう」「治癒とは」

医科の事例も踏まえながら、いろいろ考えました。
すると、歯科には医科一般とは逆の特徴的な3つの点が思い浮かびます。

◆ 自然治癒力・復旧力がない
◆ 回避予防が可能・有効である
◆ 自覚症状が当てにならない

これらの気づきは、私にとって非常に大きなインパクトでした。
これでは、医療行為と同じように歯を取り扱うと、必然的にどんどん壊れて行ってしまいます。

当時のショックに打ちのめされていた私はこれを『歯医者不要論』と位置付けていました。

『歯医者不要論』で見える、予防の重要性

私が言うのもなんですが、この状況を打破するには、(総入れ歯などの特殊な例を除いては)なるべく歯の治療に持ち込まない様な努力が歯を守る、という結論になります。

今やらなければいけない処置はしてしまった方がいいですが、それだけではだめで、歯の治療に持ち込まないためには基本的に『良い状態を維持する』努力が非常に有効なのです。維持するには予防・メンテナンス(簡単に言えば定期検診)と、ご家庭での適切な歯みがき、食習慣や生活習慣への気配りです。

したがいまして現在は、医院としては予防・メンテナンスに主軸を移して、地域の皆様のお口の健康を守ることを第一に取り組んでおります。

そのようなこともあり、現在とくに歯医者選びの基準にお悩みの方にこそ、いちど当歯科室をお試しいただきたいと考えております。

診療に際しましては、保険医療機関ということもあり広く薄く負担して給付するという大前提がありますので、極力より多くの方に効率的に療養が給付できるように、と予約制の工夫を含めて心を砕いています。

歯にかかる力や歯・歯列の形状は歯の予後に大きく影響を及ぼしますので、インプラントと矯正治療に関しては、有効と思われるものに関してはなるべく選択肢のひとつとしてご提案はさせていただいております。ただ、保険外診療に関しては、あまり敷居が高いとかえって足が遠のいてしまうことになり、地域の皆様の健康維持にとってはトータルでマイナスになってしまうのは本末転倒ですので、そこは柔軟な対応をこころがけているところです。

開業に際しましては、叔父が急逝して10年近くたっていること、私の実家が静岡の三島であることなどから、当地ではなく、双方からの便を考慮して県南のこの地にお邪魔することになりました。まだまだ修行途上の若輩・未熟者ではありますが、今後も精進を重ねてまいる所存ですので、何卒よろしくお願い申し上げます。

略歴

静岡県立韮山高等学校 卒業
東京医科歯科大学歯学部 卒業
東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程(顎顔面外科学)修了
久保台小学校 校医
馴馬台小学校 校医
認定こども園 竜ケ崎みどり 園医