「予防歯科」という言葉を耳にしたとき、皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか?
多くの人は「定期的な歯の掃除」や「むし歯にならないためのチェック」を思い浮かべるかもしれません。しかし、本質的な予防歯科とは、単なる「掃除」ではなく、「生涯にわたって自分の歯を維持し、残し続けるための方法論」です。
歯科という名前がついているため誤解されやすいのですが、予防歯科の究極の目標は、「いかにして歯医者にお世話にならずに済むか」を突き詰め、実践することにあります。
まず、私たちが日常的に使っている「治療」という言葉の定義を再確認してみましょう。
医学における本来の「治癒」とは、傷口がふさがる、折れた骨がくっつく、感染が除去されて組織が再生するといった、生体の自然治癒力による復元を指します。医師は、その自然治癒を助けるために、傷口を保護したり、ギブスで固定したり、抗生物質を投与したりするのです。
しかし、歯科における「むし歯治療」はどうでしょうか。 削った穴に詰め物をしたからといって、歯が自然に増殖して元通りになることはありません。抜いた歯が再び生えてくることもありません。
私たちが「歯科治療」と呼んでいるものの正体は、実は**「接着剤で人工物に置き換える行為」**です。失われた形態を人工物で補っているに過ぎず、これは医学的には「治療」というより「リハビリテーション」に近い概念です。
また、どんなに優れた接着剤であっても、電子顕微鏡レベルで見れば隙間だらけです。健康な皮膚や粘膜が病原菌をシャットアウトするような完璧なバリア機能は、人工物には備わっていません。
私たちは長年、「削って詰めれば治る」という考え方に慣らされてきました。現在の日本の公的健康保険制度も、設立当初は有効だったかもしれませんが、現在は「悪くなってからの修復」に重点が置かれすぎています。この構造が結果として予防を軽視させ、日本人の歯の健康を損ねる一因となっているのは否定できない事実です。
さらに深刻なのは、こうした現状が私たちの「歯に対する自己評価」を下げてしまったことです。
「1本いくらですか?」と尋ねると、多くの人が数千円から数万円程度、全部合わせても数十万円くらいだと答えます。しかし、本来、自分の歯は替えのきかない臓器であり、その価値は本来、数百万数千万円、あるいはそれ以上の価値があるはずなのです。
歯科検診の終わりに、「また何かあったら連絡してください」と言われたことはありませんか?
実は、この言葉には大きな落とし穴があることがあります。
歯科疾患において、患者様が自覚できる「何か」が起きたときには、すでに病態がかなり進行しているケースがほとんどだからです。
中等度のむし歯(C2)や重度のむし歯(C3)であっても、痛みなく進行することがあります。特に歯周病は「静かなる病」と呼ばれ、素人が鏡を見ただけで判断するのは不可能です。
唯一の例外は知覚過敏でしょう。これは発生した瞬間が最も痛く、症状の強弱を経ながら時間の経過とともに和らぐことが多いのですが、患者様はこれを深刻な疾患だと誤解して心配になることがよくあります。
親知らずを抜くべきかどうかの判断も、専門的な知見が必要です。自己判断で放置し、周囲の健康な歯まで巻き添えにしてしまうケースは少なくありません。迷ったケースの多くは、結果的に抜歯が必要となるものです。
皆さんは、同じ場所を何度も治療した経験はありませんか?
「詰めたものが取れた」「被せ物の下がまたむし歯になった」……。実は、歯科医院で行われる処置の大部分は、過去に行った治療の再治療なのです。
特に、保険診療の範囲内で神経を取って差し歯にした歯は、年数が経過すると再治療が必要になるリスクが格段に高まります。最悪の場合、歯の根が割れる「歯根縦破折」を起こし、一気に抜歯に至ることも珍しくありません。
では、なぜこのような「再治療の連鎖」が起こるのでしょうか? そのヒントは、ある有名な映画の中に隠されています。
2003年のピクサー映画『ファインディング・ニモ』を思い出してみてください。ニモが捕らえられた先は、大都会シドニーにある「P.シャーマン歯科医院」でした。
日本の歯科医師の視点から見ると、このシャーマン先生の診療スタイルにはツッコミどころが満載です。
◆ ラバーダムを使用せずに根管治療をしている。
◆ 器具を操作する際の指の固定(フィンガーレスト)が甘い。
◆ 診察室でマスクをしていない。
しかし、最も注目すべきは、彼の「働き方」です。
彼の医院にはユニット(診察台)が1台しかありません。スタッフも少なく、1日に診る患者数はせいぜい数人から10人程度でしょう。それにもかかわらず、彼は趣味のダイビングやボートを楽しみ、豊かな生活を送っています。
なぜこれが可能なのでしょうか? それは、欧米などの歯科先進国では、残念ながら歯科治療、とくに補綴(ほてつ)には保険が効かないからです。
しかし逆に言うと、予防歯科がほぼ完全に浸透して久しいからこそ、このスタイルが成立しているのです。つまり、歯の「治療」で歯医者にお世話になる人がほぼいないことを示しています。
日本の保険制度のもとで、シャーマン先生のようなスタイルで診療を行えば、あっという間に倒産してしまいます。現在の日本の制度では、1時間に4人以上の患者様を診なければ経営が成り立たないような点数設計になっているからです。
予防歯科が浸透した国では、歯科医師の主な仕事は「チェック(診断)」です。実際のクリーニングや指導はプロフェッショナルである歯科衛生士が行います。
「日本は保険で安く治療できてラッキーだ」と思っている間に、歯はどんどん削られ、失われていく。この矛盾に気づくことが、予防歯科への第一歩となります。
「歯医者なんだから歯だけを診てくれればいい」という考えは、現代の予防歯科では通用しません。
歯の状態は、その人のこれまでの歩み―職業、食生活、生活習慣、性格、全身の骨格などが複雑に絡み合った「生き様の表現」そのものだからです。
予防において、フッ素の活用は非常に有効です。しかし、日本ではまだその重要性が十分に理解されていません。
適切な濃度の[F-](フッ素イオン)は、歯の結晶構造であるアパタイトの中の[OH-](水酸化物イオン)と入れ替わることで、フルオロアパタイトというより強固な結晶を作ります。これにより、酸に対する抵抗力が高まり、むし歯になりにくい歯へと強化されます。
特に生えたての永久歯(幼若永久歯)に対しては劇的な効果を発揮します。水道水のフッ素化が行われていない日本では、歯科医院での定期的なフッ素塗布と、一定濃度フッ素配合の歯磨き剤の活用が欠かせません。
お口の中には数千億の細菌が住んでいますが、大きく分けて「むし歯菌」「歯周病菌」「それ以外の菌」が勢力争いをしています。
むし歯になりやすい人は、口内のむし歯菌の比率が高い状態にあります。これを打破するためには、歯磨き以上に「砂糖(ショ糖)」のコントロールが重要です。
羅漢果(ラカンカ)や甘草などのノンシュガー甘味料を上手に取り入れ、むし歯菌の栄養源を断つ工夫が必要です。また、加齢や病気で唾液が減り、口が乾燥しやすい方は、より一層の配慮が求められます。
実は、内科的な健康状態が整っていないと、いざという時に歯科治療そのものが受けられないという事態に陥ります。
「麻酔ができない」「薬が出せない」「出血を伴う処置ができない」となれば、手の打ちようがありません。
特に以下の5つの項目については、歯科治療において極めて重要な意味を持ちます。
◆ 過度な高血圧
血圧が高すぎると、抜歯などの処置で血が止まらなくなる恐れがあります。また、歯科麻酔に含まれる血管収縮薬(アドレナリン)が心臓に負担をかけるため、非常に危険です。
◆ 血液の滞り(血栓・コレステロール)
血液をサラサラにする薬(ワーファリンなど)を服用している場合、止血が困難になります。数値(PT-INR)が一定の基準を超えていると、一般的な歯科医院での処置は不可能です。
◆ 糖尿病・腎臓疾患
これらの疾患は、傷の治りを著しく遅らせ、感染症のリスクを跳ね上げます。HbA1cの数値が高い状態では、抜歯後の傷口が開いたり、菌が血流に乗って全身に回る「菌血症などを引き起こしたりするリスクがあるため、安易な外科処置は行えません。必ず主治医への確認が必要となります。
◆ 骨粗しょう症(ビスホスホネート製剤)
近年、歯科業界で大きな問題となっているのが、骨粗しょう症の治療薬(BP製剤)です。この薬を長期服用している方が抜歯などの処置を行うと、まれに治癒不全による「顎骨壊死」(ONJ)を起こすことがあります。服用歴がある場合は、これも必ず主治医への確認が必要となります。
◆ 要介護の問題
介護が必要な状態になると、自分でお口のケアをすることが困難になります。特に片麻痺などがあると、食べかすが口の中に残りやすく、むし歯や歯周病が爆発的に進行します。しかし、介護現場では口腔ケアの専門家(歯科衛生士)が不足しており、適切な管理が行き届いていないのが現状です。
こうなると、長年使ってきた入れ歯も合わなくなり、最終的にはすべての歯を失う「総入れ歯」への道を突き進むことになります。
しかし、寝たきりの状態で精巧な総入れ歯を作るのは、神業に近い技術を要します。そうなる前に、自立している時期から全身の健康を維持し、医食同源と適度な運動を心がけることが、巡り巡って自分の歯を守ることにつながるのです。
「日本の保険制度は素晴らしい。悪くなっても安く診てもらえるから」
医科においてはその通りかもしれません。しかし、歯科においてはこの考え方が「歯を失う特急券」になりかねません。
その理由は、「メニュー」→「はじめに」→「歯科と医科」のページ(別タブで開きます)で詳しく書いてあります。
気軽に保険で削って保険の銀歯
↓
すき間からむし歯が広がる
↓
気軽に保険で神経を取って保険の差し歯
↓
雑に神経を取って根が感染
or
保険の差し歯の芯棒で根が割れる
↓
気軽に保険で抜いて保険のブリッジ
↓
負担過剰やすき間のむし歯で共倒れ
↓
気軽に保険で抜いて保険の入れ歯
↓
バネのかかる歯がどんどんだめに
↓
気軽に保険で抜いて保険の総入れ歯
↓
かむ力が激減し、食事の質が低下する
・・・
このように、現在の保険制度は「自分の歯を残すこと」を最優先にした設計にはなっていません。この負の連鎖をどこかで断ち切らなければなりません。
では、これからの歯科医院はどうあるべきなのでしょうか。
現在、失われた歯を補うための最も優れた手段はインプラントです。
入れ歯は、噛む力のバランスを崩し、残っている健康な歯を破壊する側面がありますが、インプラントは独立して力を支えることができるため、他の歯を守ることにつながります。
しかし、長期的にはインプラントという治療自体が減っていくことが理想です。欧米のように予防が当たり前になれば、そもそも歯を失うこと自体が稀な出来事になるはずだからです。
「歯並びを整える」ことは、見た目を良くするためだけではありません。
重なり合った歯はどんなに頑張っても磨き残しが出てしまいます。若い時期に歯並びと噛み合わせを整えることは、将来のむし歯や歯周病のリスクを劇的に下げる「究極の投資」と言えます。
歯科衛生士は、国家資格を持つ予防のスペシャリストです。
歯科医師が「治療」を担当するなら、歯科衛生士は「健康管理」を担当します。ブラッシングのコーチング、定期的な清掃、長期的な口腔内管理…。将来、大きな治療が必要ない社会になれば、歯科医院のメインの立場は歯科医師から歯科衛生士へとシフトしていくでしょう。
特に乳幼児期のケアは、その子の一生を左右します。また、介護現場における口腔ケアの重要性も高まっており、彼女たちのマンパワーを行政や制度がバックアップしていくことが急務です。
ホワイトニングやセラミック治療などの審美歯科も、重要な役割を果たします。
歯が白く美しくなれば、それを維持しようとするモチベーションが高まります。ただし、人工物を入れる以上、その後の徹底した予防管理が不可欠であることは言うまでもありません。
ここまでのお話は、もしかすると「自分一人の努力では難しい」と感じられたかもしれません。 しかし、これは誰が悪いという話ではなく、これまでの歯科医療が「治療(リハビリテーション)」という幻想に頼りすぎてきた結果なのです。
私たちが目指すべき未来は、おのずと明確です。
「悪くなったら行く場所」から「健康を維持するために行く場所」へ。
皆さんの歯が、そして人生そのものが、予防歯科という新しい価値観によってより豊かになることを願っています。当院もまた、そのような未来志向型の歯科医療を実践し、皆さんの健やかな生活をサポートしていきたいと考えています。